Story1. となりの宇宙さん

読了目安:5〜7分


田中トモアキが初めてそれに気づいたのは、ゴミ出しの朝だった。

「あれ」

空を見上げながら、トモアキはつぶやいた。

いつもと同じ空だった。雲がちぎれて流れ、飛行機雲がゆっくり薄れていく。だいたい毎朝こんな感じだ。

でも今朝は何かが違う気がした。

「なんだろ」

結局わからないまま、トモアキはゴミ袋を所定の場所に置いて帰った。燃えるゴミの日だった。


トモアキは三十四歳、独身、中堅の食品商社に勤めるごく普通の会社員だった。

趣味はプラモデルと、最近始めた家庭菜園。ベランダのプランターでミニトマトが育っていた。まだ実はついていない。

宇宙について考えることは、ほとんどなかった。

学生のころ、理科の授業で「宇宙は膨張している」と習ったが、「へえ」と思っただけで、その後の人生に特に影響はなかった。宇宙が膨張しようが、自分のボーナスが膨張するわけでもないので。

そういう人間だった。


変化は少しずつだった。

ゴミ出しの翌週、トモアキは夜空を眺めていた。べつに理由はない。ベランダで水やりをしていたら、たまたま上を向いただけだ。

「なんか、でかいな」

当たり前のことを言った。宇宙はでかい。常識だ。

でもなぜか、その夜は「でかい」という感覚が妙にリアルだった。星のひとつひとつに距離があって、光が届くまでに何百年もかかっていて——うっかりそのことを思い出してしまったのだ。

「気持ち悪いな」

悪口ではない。ただ、頭が追いつかない、という意味だった。

ミニトマトに水をやり終えて、トモアキは部屋に戻った。


問題が起きたのは、その翌々日だった。

会社の昼休み、同僚の佐々木がスマホで動画を見ていた。

「なに見てんの」

「宇宙の動画。ヤバいよこれ」

トモアキはちらっと覗いた。

画面には、宇宙の大規模構造——銀河が糸のように連なるフィラメント状のパターン——が映し出されていた。どこかの大学が作ったシミュレーション映像らしく、青白い光の網目が三次元空間をゆっくりと回転している。

「綺麗だな」とトモアキは思った。

次の瞬間、思った。

あれ、これ、どこかで見た気がする。

「佐々木、これって」

「そっくりでしょ、脳みそに」

「…………そうだ、脳みそだ」

トモアキは箸を持ったまま固まった。

食べかけの唐揚げ定食が、急に遠くに感じられた。


その夜、トモアキはスマホで調べた。

「宇宙 脳 似てる」

出てきた。普通に出てきた。

研究者たちがすでにこのことを指摘していた。宇宙の大規模構造と、脳の神経ネットワークは、統計的に驚くほど類似している——そういう論文が、けっこう前から存在していた。

「え、みんな知ってたの?」

トモアキは少し傷ついた。

自分だけが気づいた発見のつもりだったのに、とっくに論文になっていた。しかも英語で。

気を取り直して、読み続けた。

銀河フィラメントと神経細胞の類似。宇宙の周期的なパルス。定期的に繰り返されるエネルギーの収縮と膨張——

「鼓動じゃん」

トモアキは声に出した。

アパートの壁は薄かったが、夜中だったので誰も聞いていないはずだった。

次のページをスクロールした。

天文学者たちが長年不思議に思っていることが書いてあった。観測できる宇宙の「果て」は、どの方向を見ても均一に見える。まるで、もっと大きな何かの「内側」から見ているかのように——

内側。

トモアキの指が止まった。

さらにスクロールした。

宇宙には「外側」があるかもしれない、という理論があるらしかった。いわゆる「多宇宙論」とか「バブル宇宙」とか呼ばれるやつだ。私たちの宇宙は、巨大な何かの中に浮かぶ、無数の泡のひとつかもしれない——

泡。

無数の。

トモアキはスマホを置いた。

天井を見た。

頭の中で、何かがゆっくりと並び始めた。

脳みそに似た構造。鼓動のようなパルス。均一な「内壁」。無数に並ぶ泡——

「待って待って待って」

トモアキは起き上がった。

「それって……細胞じゃん」


宇宙が、細胞。

私たちが暮らすこの宇宙が、もっと巨大な何かを構成する、ひとつひとつの細胞。

銀河も、太陽も、地球も、トモアキ本人も——全部ひっくるめて、たった「一個の細胞」の中の話。

で、その細胞が集まってできている「何か」は——

「生き物じゃん」

トモアキは部屋の中を歩き回った。

一周して、また歩いた。

三周したところで立ち止まった。

「……いや、でも」

落ち着け、と思った。

これはただの「なんとなく似てる」という話かもしれない。脳みそと宇宙が似てるからって、宇宙が細胞だとは限らない。タコとカメラは構造が似ているが、タコがカメラなわけではない。

冷静になれ。

トモアキは深呼吸した。

スマホをもう一度手に取った。

「多宇宙 細胞 生命体」

検索した。


出てきた。

普通に出てきた。

「宇宙細胞仮説」とか「コスミック・バイオロジー」とか、いろんな名前で、いろんな人が、もうとっくに同じことを考えていた。

「え、またみんな知ってたの?」

二度目の敗北だった。

しかも今回は日本語の記事もあった。言い訳もできない。

トモアキはため息をついた。

でも読み進めた。

記事の中に、ある天文学者のコメントが引用されていた。

——もし私たちの宇宙が細胞のひとつだとするなら、宇宙の「膨張」は細胞分裂の前兆かもしれない。そしてビッグバンは、新しい細胞が生まれた瞬間——つまり、誕生だったのかもしれない。

トモアキは読み返した。

もう一度読んだ。

「膨張してる……」

宇宙は今も膨張し続けている。これは事実だ。中学で習った。

「分裂……する……?」

スマホを持つ手が、少し震えた。


翌朝。

トモアキは再びゴミ出しに行った。燃えないゴミの日だった。

空を見上げた。

いつもと同じ空だった。でも、見え方が変わっていた。

この宇宙全体が、たったひとつの細胞。

で、それが今、膨張している。

つまり俺たちは今——

「分裂待ちかよ」

ゴミを置いて、トモアキは歩き出した。

まあいい、と思った。

細胞は細胞なりに、分裂するその日まで、今日も仕事がある。得意先への請求書を修正して、夕方には部長に報告して、帰りにスーパーで卵を買って帰らなきゃいけない。

宇宙が細胞だとしても、やることは変わらない。

空は青かった。

ゴミ置き場のカラスが、迷惑そうにこちらを見ていた。

となりのアパートのおじさんがゴミを持って出てきた。

「おはようございます」とおじさんが言った。

「おはようございます」とトモアキは言った。

同じ細胞の中の住人どうし、今日も挨拶を交わした。



作者メモ 多宇宙論・バブル宇宙・宇宙の膨張はいずれも現代物理学で真剣に議論されている概念である。「宇宙が細胞である」という結論には、まだ誰も達していない——少なくとも、査読つき論文の上では。

...
-
-

← 一覧に戻る