Story2. うちの子、七十二歳
読了目安:6〜7分
玄関を開けたとき、リビングのソファに見知らぬおばあさんが座っていた。
「……え」
スーツのまま固まっている私に、おばあさんはのんびりと顔を向けた。
「あら、おとうさん。おかえり」
声は、娘のカエデの声だった。
妻のルイから電話が来たのは、その三十分前だった。
「ねえ、落ち着いて聞いてね」
この出だしが「落ち着いて」の場合、たいてい落ち着いていられない話だ。
「カエデが……おばあちゃんになってる」
「は」
「見た目が。おばあちゃん。七十歳か八十歳くらいの。でも声はカエデで、しゃべり方もカエデなんだけど、なんか……」
「なんか?」
「ちょっと落ち着いてる」
帰宅すると、ルイはソファのおばあさん——カエデ——の隣に座って、おろおろしていた。
おばあさんのカエデは、ランドセルを横に置いて、しわだらけの両手を膝の上でおとなしく重ねていた。白髪で、背中が少し丸く、でも表情はおだやかだった。
「カエデ……?」
「うん、カエデ」とおばあさんは言った。「おとうさん、顔色わるいよ。ご飯、食べてきた?」
心配されてしまった。
話を聞くと、こういうことだった。
今日の給食が嫌いなものばかりで、でも先生に「残したらだめ」と言われて、ずっとストレスをためながら食べていたら、気づいたらこうなっていたらしい。
「気づいたらって……」
「なんか、体がじわじわあつくなって、気づいたらこうなってた」
カエデは自分の手を眺めながら言った。
「びっくりした?」
「びっくりした」とルイが言った。
「私もびっくりした」とカエデは言って、ふふ、と笑った。笑い方がおばあちゃんだった。
一応、病院に連れていこうという話になったが、カエデが「疲れたから今日はいい」と言い張った。
「明日でいい。今日はゆっくりしたい」
八歳の口から出る言葉ではなかったが、たしかに七十代の貫禄があった。
ルイが「でも……」と続けようとすると、カエデは静かに首を振った。
「ルイちゃん、そんなにあわてなくていいよ。ご飯にしよ」
ルイちゃん、と呼ばれた妻が、小さく「はい」と言った。
完全に逆転していた。
夕食はカレーだった。
カエデはカレーが大好きなので、にこにこしながら食べた。見た目はおばあさんだが、カレーへの反応だけはいつものカエデだった。
「おいしい」
「よかった」とルイが言った。
食べながら、カエデはぽつぽつと話した。
「なんか、むかしのこととか思い出す気がする」
「むかしって、カエデのむかし?」
「ちがう、もっとむかし。おばあちゃんのむかし」
「……おばあちゃんって、誰の?」
カエデは少し考えた。
「わかんない。でも縁側で、麦茶飲んでた気がする」
私とルイは顔を見合わせた。
「それって……」
「夢みたいなもんだと思う」とカエデは言った。「気にしないで」
気にしないで、と言われても。
翌朝、目が覚めると、カエデはいつものカエデに戻っていた。
ランドセルを背負って、ジャムトーストを頬張っていた。
「カエデ!」
「なに? おとうさん、なんか顔こわい」
「昨日のこと、覚えてる?」
カエデはきょとんとした。
「昨日? ああ、給食まずかった。ピーマン入ってた」
「それだけ?」
「それだけ」
ルイと二人で顔を見合わせた。
カエデは何も覚えていないようだった。
それから、三ヶ月が経った。
カエデが「変身」するパターンが、だいたいわかってきた。
強いストレスを受けると、見た目も中身も一気に年をとる。逆に、ストレスが解消されたり、ぐっすり眠ったりすると、朝にはもとに戻っている。
変身中のカエデは、いつもおだやかで、よく気がついて、少し哲学的だった。
ある日、私が確定申告の書類を前に頭を抱えていると、変身後のカエデがお茶を持ってきて隣に座った。
「むずかしいの?」
「むずかしい」
カエデは書類をじっと見た。
「ここ、去年の数字と足してみたら?」
「……え、なんでわかるの」
「なんとなく」
なんとなくで確定申告のアドバイスができる八歳。
結果、カエデの指摘は正しかった。
ルイの友人の結婚式で、ルイがスピーチの原稿が書けないと泣きそうになっていたとき。
変身後のカエデが原稿を書いた。
「ありがとうって気持ちと、これからも仲良くしたいって気持ちが伝わればいいんだよ」
と言いながら、鉛筆でゆっくり書いたその文章は、シンプルで、あたたかくて、ルイが「これすごくいい」と本当に泣いた。
式当日、スピーチは大好評だった。
カエデはもちろん、何も覚えていなかった。
「ねえ、カエデってさ」とルイがある夜、布団の中でぽつりと言った。
「うん」
「変身してるとき、どこの誰なんだろうね」
「……どういうこと?」
「カエデなんだけど、カエデじゃない感じがするじゃない。もっとむかしの誰か、みたいな」
縁側で麦茶を飲んでいた誰か。
「わかんないけど」と私は言った。「でも毎回、カエデのこと好きそうだよな」
「え?」
「お茶持ってきたり、心配したり。ちゃんとカエデの家族のこと、好きそうだろ」
ルイはしばらく黙っていた。
「……そうだね」
「だからまあ、誰でも、いいか」
ルイはふふ、と笑った。
変身後のカエデと同じ笑い方だった。
今年の夏、カエデは「カブトムシ欲しい」とダダをこねて、こってりと変身した。
おばあさんのカエデは、縁側——うちにはないのでベランダ——でスイカを食べながら、静かに空を見ていた。
「カエデ、カブトムシどうする?」
「いい。そんなことより、スイカがおいしい」
悟っていた。
翌朝、もとに戻ったカエデは「カブトムシ!」と言い張った。
結局、買いに行った。
了
作者メモ 「老いた自分は、若い自分の何を知っているのか」——この物語は、そんな問いをこっそり抱えています。変身後のカエデが何者なのかは、作者にもわかりません。ただ、家族のことが好きそうなのは、確かなようです。