Story3. タダの世界

読了目安:5〜7分


その日の朝、目が覚めたら、お金がなくなっていた。

正確には、お金という概念が、なくなっていた。

スマホの通知にこうあった。

【重要】本日午前0時をもって、世界通貨制度は永久に廃止されました。すべての財・サービスは無償で提供されます。詳細は政府発表をご確認ください。

田中トモアキは通知を三回読んだ。

四回目に読んでも意味は変わらなかった。


世界は、思ったより静かだった。

トモアキは恐る恐るコンビニへ行った。

棚に商品が並んでいた。レジには店員がいた。

「あの……これ、本当にタダですか」

「はい」と店員は疲れた顔で言った。「朝からその質問ばかりです」

トモアキはとりあえずシュークリームを一個取った。

罪悪感があった。

「本当にいいんですか」

「どうぞ」

「……ありがとうございます」

店を出て、シュークリームを食べた。

おいしかった。でも、なぜかいつもよりおいしくなかった。


トモアキは四十二歳、中堅の広告代理店に勤めていた。

専門は予算管理だった。クライアントの予算を最大限に活かし、費用対効果を最適化する——それが仕事だった。

お金のない世界で、その仕事は、きれいさっぱりなくなった。

会社から連絡が来た。

当面の間、業務を休止します。再開の見込みは未定です。

トモアキはスマホを置いて、天井を見た。


七歳の娘のカエデは、学校が休みになったので家にいた。

ランドセルを背負ったまま「学校なかった!」と帰ってきて、そのままリビングでアニメを見始めた。

「カエデ、ランドセル置いてきなさい」

「はーい」

置きに行かなかった。

トモアキはソファに座って、ぼんやりとニュースを見た。

画面の中では、世界中の人々が混乱していた。株式市場は存在意義を失い、銀行は閉鎖され、経済学者たちが「これは前例のない——」と繰り返していた。

当たり前だ、とトモアキは思った。

前例があったら、もうお金はなかっただろう。


三日が経った。

不思議なことに、世界は回っていた。

農家は野菜を作り続けた。医者は患者を診続けた。電車は走り、水道は出て、電気はついた。

誰かが「じゃあ誰が働くんだ」と叫んでいたが、どうやら「やりたい人がやる」という状態に、なんとなくなりつつあった。

トモアキの妻のルイは、三日目に「ちょっと出かけてくる」と言って、近所の老人ホームに行き、そのままボランティアとして働き始めた。

「楽しいの?」とトモアキは聞いた。

「楽しい」とルイは言った。「お金もらってたときより、なんか楽しい」

トモアキには、その感覚がわからなかった。


一週間後、トモアキはまだ家にいた。

何もしなかった。

できなかった、というほうが正確だった。

何かをしようとするたびに「これに意味はあるか」と考えてしまった。お金がない世界で、自分に何ができるか。自分が何をすべきか。

予算を管理する仕事は消えた。

では、トモアキという人間には、何が残るのか。

ソファの上で、そればかり考えていた。


「おとうさん、ひまそう」

カエデが隣に座ってきた。

「ひまだよ」

「いっしょにいこう」

「どこへ」

「こうえん」

トモアキはカエデと公園へ行った。

特に何もなかった。砂場と滑り台とブランコがあった。カエデは滑り台を五回滑って、ブランコを十分こいで、砂場で穴を掘り始めた。

トモアキはベンチに座って、それを眺めていた。

「ねえ、カエデ」

「なに」

「楽しい?」

カエデは振り返った。

「たのしいよ」

「何が楽しいの」

カエデは少し考えた。

砂だらけの手を見て、また穴を見て、それからトモアキを見た。

「なんか、たのしい」


「なんか、たのしい」

その答えが、トモアキの頭から離れなかった。

理由がなかった。目的もなかった。費用対効果もなかった。

ただ、穴を掘っていて、楽しかった。

トモアキはふと思った。

自分はいつから、何かをするたびに「意味」を探すようになったのだろう。

子供のころ、公園で砂を掘っていたとき——あのとき、意味なんて考えていたか。

考えていなかった。

ただ、掘りたかったから、掘っていた。

楽しかったから、楽しかった。

それだけだった。


お金がある世界では、すべてに値段がついていた。

時間にも、労働にも、才能にも、感情にさえも。

値段がつくということは、価値が数字になるということだ。数字になれば、比べられる。比べられれば、勝ち負けが生まれる。

トモアキは四十二年間、その数字の中で生きてきた。

予算を管理し、費用対効果を計算し、数字で物事を測り続けた。

そしてお金がなくなった途端、自分が何者かわからなくなった。

「おとうさんも掘る?」

カエデが声をかけてきた。

砂だらけの手を差し伸べていた。

トモアキはベンチから立ち上がった。

砂場にしゃがんで、素手で砂を掘り始めた。

スーツのズボンが汚れた。

どうでもよかった。


カエデが言った。

「おとうさん、たのしい?」

トモアキは少し考えた。

砂の感触があった。日が傾いていた。カエデの頭の上に夕陽が当たっていた。

「たのしい」

「なんで?」

トモアキはまた少し考えた。

「なんか、たのしい」

カエデはにっこりして、また穴を掘り始めた。

トモアキも掘った。

特に何もない、穴だった。

でも、ふたりで掘っていた。


帰り道、カエデが手をつないできた。

「ねえ、おとうさん」

「なに」

「むかし、おかねってあったんだよね」

「あったよ」

「それって、たのしかった?」

トモアキは答えに詰まった。

夕暮れの住宅街を、ふたりで歩いた。

電柱に鳥がいた。どこかで夕飯の匂いがした。

トモアキはやっと、口を開いた。

「……わかんない」

カエデはそっか、と言って、また手をぎゅっと握った。

わかんない、で十分だった。

たぶん、それが答えだった。



作者メモ お金は人間が発明した、価値を伝えるための「言語」だった。便利な言語だったが、いつしか言語そのものが目的になった。言語を失ったとき、人は何を語るのか——この物語は、その問いを七歳の女の子に投げてみました。

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