Story12. アブラカダブラ
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百年前、言語学者の田中博士が偶然に魔法を発見した。
詳しい経緯は省くが、要するに「言葉には力がある」ということを、田中博士は数式で証明してしまった。
それから百年。
魔法は日常になった。
電灯をつける呪文、料理を温める呪文、重い荷物を浮かせる呪文。人々は魔法と共に生き、争いは減り、世界はおおむね平和になった。
ただ一つ、禁忌とされている呪文を除いては。
「アブラカダブラ」
人を死に至らせる、最も危険な呪文。その言葉が持つ力は強大で、魔法省は厳重に使用を禁じていた。百年間、この呪文が実際に唱えられたのは、事故と実験を合わせて三件だけだった。
だから誰も、この呪文を覚えていなかった。
言葉の力は、知識と共にある。使わない言葉は、忘れる。
そういうものだった。
宇宙船が現れたのは、四月の晴れた火曜日だった。
東京上空に、巨大な銀色の円盤が現れ、全世界に映像が流れた。
宇宙船の側面に、翻訳機能を持つスピーカーが取り付けられており、地球のすべての言語に対応して宣言した。
「地球人よ、聞け。我々はショノケン星人だ。我々は宇宙の覇者であり、貴星を我々の帝国に編入する。抵抗は無意味だ。今すぐ降伏せよ」
世界中がパニックになった。
各国の首脳が緊急会議を開いた。
軍隊が動いた。しかし通常兵器はショノケン星人の防御シールドに通じなかった。
「魔法を使え」という声が上がった。
世界魔法連合が召集された。
「最大の攻撃魔法は何か」
「アブラカダブラです」
「使え」
「……誰も覚えていません」
沈黙が広がった。
百年間、誰も使ってこなかった呪文は、ほとんどの人間の記憶から消えていた。
「覚えている人間を探せ」
見つかった。
九十四歳の元魔法研究者、山田トモアキ。
引退して二十年。庭でトマトを育てていたところを、政府の黒塗り車に乗せられ、緊急対策本部に連れてこられた。
「アブラカダブラを唱えられる人間は、現在あなただけです」と担当者が言った。
トモアキはしばらく黙っていた。
「あの呪文を使うのは、六十年ぶりじゃのう」
「お願いします」
「仕方ないのう」とトモアキは言った。「でも、腰が痛いから椅子を持ってきてくれるかのう」
椅子が運ばれた。
トモアキは座った。
深呼吸した。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「アブラカダブラ」
宇宙船の中で、何かが起きた。
スピーカーから、音が聞こえてきた。
笑い声だった。
最初は一人だった。それが広がった。
宇宙船全体が、笑い声に包まれた。
地上の人々は顔を見合わせた。
「……何が起きている?」
スピーカーから、ショノケン星人の声が流れた。翻訳機が日本語にした。
「ちょ、ちょっと待て、今……今なんて言った?」
「アブラカダブラです」と対策本部が答えた。
また爆笑が起きた。
宇宙船が、少し揺れた。
笑い過ぎて揺れているようだった。
「説明しろ」と対策本部が言った。
しばらくして、ショノケン星人の声が聞こえた。まだ笑いを堪えている様子だった。
「……地球人よ、一つ確認させてくれ。今の言葉の意味を、わかって言っているのか」
「死に至らしめる最強の呪文です」
また爆笑が起きた。
「違う違う違う」とショノケン星人は言った。「我々の言語で、その言葉は……なんというか……極めて下品な、性的な……非常に低俗な冗談の表現で……」
翻訳機がそこで少し詰まった。
「要するに、銀河系でも有数の、下ネタです」
対策本部が沈黙した。
「……下ネタ」
「そうです。子供には聞かせられないレベルの。しかも古典的な下ネタで、今どきそれを言う知性体はいない。銀河のどこに行っても通じる下ネタです。それをあなた方が、真剣な顔で、攻撃として使ってくるとは……」
また笑い声が宇宙船を揺らした。
対策本部は緊急会議を開いた。
「どうする」
「もう一度唱えるか」
「笑われるだけだ」
「でも宇宙人が動けなくなっているのは事実だ」
「笑い転げているだけだ」
「結果的に侵略が止まっている」
沈黙。
「……続けるか」
「続けよう」
トモアキが再びマイクの前に座った。
「アブラカダブラ」
宇宙船がまた揺れた。
笑い声が響いた。
「やめろやめろ、頼むから、腹が痛い、腹が——」とショノケン星人が言った。
「アブラカダブラ」
「ひぃ——っ」
「アブラカダブラ、アブラカダブラ、アブラカダブラ」
宇宙船が大きく揺れた。
何かが落ちる音がした。
「降参だ!」とショノケン星人が叫んだ。「降参する! 侵略をやめる! だからもうやめてくれ! 笑い死にする!」
こうして、地球は救われた。
史上初の宇宙規模の侵略が、下ネタ一つで退けられた瞬間だった。
ショノケン星人の宇宙船は去り際に、翻訳機でこう言った。
「地球人は、油断ならない。まさか銀河最古の下ネタを兵器として使ってくるとは思わなかった。我々の完全な読み違いだった」
対策本部の担当者が言った。
「我々は死の呪文だと思っていました」
「死の呪文? それがなぜそんな意味に」と宇宙人が言った。
「わかりません」と担当者は言った。
「地球人は謎だ」とショノケン星人は言った。
宇宙船は去った。
事件後、トモアキはまた自宅に帰った。
トマトに水をやりながら、トモアキはつぶやいた。
「アブラカダブラが下ネタとは……田中博士も知らなんだじゃろうな」
トマトは赤く実っていた。
トモアキは少し笑った。
それから、腰をさすった。
翌日、世界中のニュースが報じた。
「アブラカダブラ、宇宙で下ネタだった——地球の禁忌呪文、宇宙では別の意味」
コメント欄は、世界中の人間の笑い声で溢れた。
田中博士の研究書を持っている人は、改めて一ページ目を読み返した。
そこにはこう書いてあった。
「言葉の力は、それを知る者にのみ宿る。」
なるほど、とその人は思った。
宇宙人には、別の意味で宿っていたのだ。
了
作者メモ 言葉の意味は、誰がどこで使うかによって変わる。地球では禁忌の呪文が、銀河では下ネタだった。言葉が持つ力は、文化の数だけある。