Story6. オフィス消えちゃった
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その朝、トモアキはいつも通り赤坂の駅を出た。
いつも通りコーヒーを買い、いつも通り信号を渡り、いつも通りオフィスビルに向かった。
そしてそこで立ち止まった。
ビルがなかった。
正確には、ビルがあったはずの場所に、まっさらな土地が広がっていた。雑草一本生えていない、きれいな更地だ。隣のビルも、向かいのビルも、ちゃんとある。ただ、エアーコンサルタティング株式会社が入居していた十二階建てのビルだけが、跡形もなく消えていた。
トモアキはしばらくそこに立っていた。
コーヒーが冷めた。
上司の山田部長に電話した。
「部長、オフィスがないんですが」
「わかってる」と部長は言った。落ち着いた声だった。「オレも今着いたとこだ」
「どういうことですか」
「わからん。ビルが消えた」
「消えた……」
「ただ」と部長は続けた。「本社に確認したところ、会社組織そのものは存在している。登記も、法人番号も、取引先との契約も、何も変わっていない。ビルだけがない」
「ビルだけが」
「そうだ」
トモアキは更地をもう一度見た。
青い空が広がっていた。秋晴れだった。こんなに空が広いとは思わなかった、赤坂に。
「で、今日はどうするんですか」
間があった。
「出社してくれ」と部長は言った。
「…………どこに」
「いつもの場所に」
九時になると、スーツ姿の人間たちが、更地に集まってきた。
全員、いつも通りの時間に出社してきた。
誰一人、遅刻しなかった。
総務の佐藤さんが段ボール箱を抱えてきた。どこで調達したのか、人数分より少し多い段ボールを持っていた。
「机代わりにどうぞ」と彼女は言った。
「ありがとうございます」と全員が言った。
各自、段ボールを地面に置いて、その前にしゃがんだ。あるいは正座した。ノートパソコンを開いた人もいた。ただ、会社のWi-Fiはビルと一緒に消えていたので、各自スマホのテザリングで接続した。
テザリングの申請を会社に出していなかった人は、隣の人に頭を下げて間借りした。
十分後には、全員が仕事を始めていた。
トモアキの今日のタスクは、クライアントへの提案資料の作成だった。
段ボールの上にノートパソコンを置き、しゃがんで画面を見た。
腰が痛かった。
隣では、営業の木村さんが電話をしていた。
「はい、エアーコンサルタティングの木村です。……はい、本日もよろしくお願いします。……え、オフィスですか? 赤坂です。……いえ、屋外です。……はい、青空の下です。……ええ、段ボールで。……今日は晴れているので問題ないかと。……はい、ご提案の件はこちらに変更はございません」
電話を切って、木村さんはノートパソコンに向かった。
何事もなかったように、メールを打ち始めた。
昼になった。
社員たちは近くのコンビニや定食屋に昼食を買いに行き、更地に戻ってきて食べた。
青空の下、スーツ姿の男女が段ボールを囲んで昼食を食べる光景は、端から見れば異様だった。
通りがかりの人が何人か、立ち止まって見ていた。
スマホで写真を撮っていた人もいた。
部長が立ち上がって、その人たちに頭を下げた。
「お騒がせして申し訳ございません。エアーコンサルタティング株式会社です。本日、諸事情によりオフィスが屋外となっております」
通りがかりの人たちは、どう反応すればいいかわからなかったようで、とりあえず頷いて立ち去った。
午後になると、風が出てきた。
資料が飛んだ。
「すみません!」と誰かが叫んで、紙を追いかけた。
「おもしを置いてください」と総務の佐藤さんが言って、どこからか小石を集めてきた。
各自、書類の上に小石を置いた。
営業部のチームミーティングが始まった。段ボールを囲んで、四人がしゃがんで話し合った。ホワイトボードがないので、誰かが段ボールの側面にマジックで図を書いた。
「ここがボトルネックで」
「ここからここへのフローが」
「なるほど、では提案のアプローチを変えましょう」
ミーティングは三十分で終わった。
いつもより短かった。
「段ボールが小さいので、無駄な話が減りますね」と誰かが言った。
誰かが笑った。
三時になった。
クライアントから電話がかかってきた。
トモアキが出た。
「本日の打ち合わせの件ですが、御社にお伺いしてよろしいでしょうか」
トモアキは一瞬考えた。
「恐れ入りますが、本日は弊社のほうにお越しいただくのが難しい状況で……」
「でしたら、弊社にいらっしゃいますか?」
「…………はい、参ります」
トモアキは部長に声をかけた。
「クライアント訪問、行ってきます」
「わかった。気をつけて」と部長は段ボールの前でうなずいた。
トモアキはネクタイを直し、スーツのホコリを払い、カバンを持って更地を出た。
夜、六時に退社時刻が来た。
全員が、段ボールの片付けを始めた。
資料をまとめ、パソコンをカバンにしまい、使った段ボールを丁寧に重ねた。
「この段ボール、明日も使いますか」と誰かが聞いた。
「とりあえず置いておきましょう」と部長が言った。
段ボールは更地の隅に積まれた。
全員が「お疲れ様でした」と言い合って、帰っていった。
誰一人、早退しなかった。
残業した人もいた。
暗くなっても、スマホのライトで画面を照らして、資料を仕上げていた。
トモアキは最後にその人の背中を見て、何か言おうとして、やめた。
「お疲れ様です」とだけ言った。
「お疲れ様です」とその人は画面から目を離さずに言った。
翌朝、全員がまた定刻通りに出社してきた。
段ボールはそのまま残っていた。
誰かが近くのカフェから延長コードを借りてきた。
誰かがブルーシートを敷いた。
総務の佐藤さんが、段ボールに会社のロゴをマジックで書いた。
「少し会社らしくなりましたね」と彼女は言った。
全員が笑った。
それから、仕事を始めた。
ビルが戻ってきたのは、三週間後だった。
何の説明もなく、ある朝出社したら、ビルが元通り建っていた。
全員が、特に驚かなかった。
エレベーターに乗り、各自のフロアに上がり、自分のデスクに座った。
しばらくして、木村さんがぽつりと言った。
「なんか、天井が低く感じますね」
誰かが笑った。
全員が、仕事を始めた。
了
作者メモ ビルがなくなっても、会社はなくならなかった。私たちが認識している会社とはなんなのだろうか。きっと建物がなくなっても仕事はできる。