Story7. デイジーチェーン
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トモアキは息を止めた。
スコープの中に、標的の後頭部がある。
距離、八百四十メートル。風速、秒速一・二メートル。北北西。気温、十一度。湿度、六十三パーセント。すべての変数を頭の中で処理し、トモアキは銃口を微調整した。
窓際に座った標的は、何かをしている。外を眺めているのか、ただ座っているのか。いずれにせよ、動いていない。
これ以上ない条件だった。
報酬は三百万ドル。依頼主はある国際組織。標的の名前はわからないが、かつて業界に名を知られた人物で、今は引退して静かに暮らしているという話だった。
なぜ引退した人間を今さら消す必要があるのか。
トモアキはそういうことを考えない主義だった。
考える人間は、この仕事を長く続けられない。
ゆっくりと、引き金に指をかけた。
その瞬間。
——狙われている。
感覚だった。説明できない、皮膚の裏側がざわめく感覚。十五年この仕事をしてきた体が、言葉より先に知っていた。
トモアキは動かなかった。
動けなかった。
ルイは息を整えた。
スコープの中に、標的がいる。
廃ビルの屋上、給水塔の影。カモフラージュネットの下。完璧な狙撃ポジション。標的——コードネーム「トモアキ」——は微動だにしない。
距離、六百二十メートル。条件は申し分なかった。
依頼主から渡されたファイルには、こうあった。
「世界屈指のスナイパー。現役最強と目される男。排除せよ。」
最強、という言葉がルイは好きだった。最強を倒せば、私が最強になる。シンプルな論理だ。
二十八歳。この世界に入って七年。まだ若いと言われるが、失敗したことは一度もない。
引き金に指をかけた。
その瞬間。
——狙われている。
背筋が凍った。
どこだ。どこから。
体は石になったように動かなかった。
動いた瞬間、終わる。そのことを、体が知っていた。
カエデは目を細めた。
スコープの中に、標的がいる。
廃倉庫の屋上、煙突の陰。見事な隠れ方だ。しかし甘い。私の目は欺けない。
四十年この仕事をしてきた目は、まだ衰えていなかった。
標的——コードネーム「ルイ」。ここ数年で頭角を現した若手。依頼主は「将来的な脅威になる前に潰せ」と言っていた。
距離、七百十メートル。
引き金に指をかけた。
その瞬間。
——狙われている。
カエデは動きを止めた。
六十二年生きてきて、この感覚を覚えたのは片手で数えられるほどしかない。そしてその感覚が外れたことは、一度もなかった。
窓際で、カエデはライフルを構えたまま、石になった。
・・・そう、カエデを狙っているのはトモアキだった。
三人は、動けなかった。
トモアキはカエデを狙い、ルイに狙われている。
カエデはルイを狙い、トモアキに狙われている。
ルイはトモアキを狙い、カエデに狙われている。
完璧な三すくみ。
誰かが動けば、連鎖する。
誰も動けない。
沈黙だけが、街に積もっていった。
三十分が経った。
トモアキは静かに一つの結論を出した。
交渉するしかない。
声を出せば位置がバレる。いや、もうバレているか。
業界の連絡網でコードネーム「カエデ」を検索すると、連絡先が残っていた。
メッセージを打った。
「今、あんたを狙っている。しかしオレも誰かに狙われている。休戦を提案したい。」
送信した。
カエデのスマホが震えた。
画面を見た。見知らぬ番号からのメッセージ。
読んだ。
なるほど、三すくみか。
状況を把握するのに、三秒もかからなかった。四十年の経験がそうさせた。
カエデは少し考えて、返信した。
「同じ状況だ。了解した。ただし、休戦の証明をどうする?」
トモアキはメッセージを読んで、考えた。
もう一人いる。
「オレたちの間に、第三のスナイパーがいる。あなたが狙っている標的だ。その人物に連絡はとれるか?」
カエデからすぐに返信が来た。
「とれる。少し待て。」
廃倉庫の屋上で、ルイのスマホが震えた。
画面を見た。知らない番号だった。
「あなたを狙っている。しかし今は休戦したい。事情を説明する。」
ルイは眉をひそめた。狙っている相手から、連絡が来た。
「……どういうことですか。」
「三すくみだ。私はあなたを狙い、あなたはトモアキを狙い、トモアキは私を狙っている。三人とも動けない。」
ルイはしばらくスコープから目を離さずに、画面を読んだ。
それから、ゆっくりと状況を整理した。
「……なるほど。」
思わず声に出た。
「条件は?」と打った。
三人で、メッセージをやりとりした。
グループチャットが作られた。
名前は「休戦」。
条件はシンプルだった——三人同時に、銃を置く。
カウントは、カエデが強引に引き取った。
「私が一番年上だ。私がカウントする。」
文句はなかった。
トモアキはふと思った。
——この人物、妙に手慣れている。
「三、二、一——」
三人は同時に、銃を置いた。
静寂が広がった。
誰も撃たなかった。
しばらくして、ルイから返信が来た。
「一つ確認していいですか。報酬の振り込み口座——皆さん、同じ銀行じゃないですか。」
三人は沈黙した。
調べた。
同じだった。
トモアキが打った。
「……依頼主、同じじゃないか。」
カエデが返した。
「つまり我々は、同じ組織に雇われて互いを殺し合うよう仕向けられた。」
また沈黙した。
ルイが打った。
「依頼主、どこですか。」
カエデが住所を調べた。
「この街から、四キロ先だ。」
トモアキがすぐに返した。
「スコープで見える。」
三人は同時に、銃口を——同じ方向へ向けた。
翌朝のニュースは、街外れのビルで起きた不審な爆発事故を報じた。
死傷者なし。建物は全壊。
その組織が再び三人に連絡してくることは、なかった。
了
作者メモ 三すくみは、均衡の構造だ。しかし均衡が崩れたとき——三人の銃口は、思わぬ方向を向いていた。