Story8. コーヒーラバー

読了目安:15〜20分


一 至高の一杯

トモアキにとって、コーヒーは宗教だった。

朝六時。まだ暗いうちから、トモアキはコーヒーのために起きる。

まずグラインダーで豆を挽く。豆はエチオピア・イルガチェフェのナチュラル精製、焙煎は中浅煎り。挽いた瞬間に広がる花のような香りを、トモアキは毎朝五秒間だけ目を閉じて嗅ぐ。これが一日の始まりだ。

お湯は九十二度。電気ケトルで沸かした後、一分待つ。ドリッパーはHARIOのV60。ペーパーフィルターは事前に湯通しして紙の匂いを飛ばす。蒸らしは三十秒。そこから三回に分けてゆっくり注ぐ。

四分後、カップに注がれた琥珀色の液体を、トモアキは両手で持って飲む。

「……うまい」

毎朝そう言う。

毎朝本当にそう思う。

巷で流行っているコーヒーチェーンは、トモアキにとって「コーヒーを模した何か」でしかない。某緑色のマークの店も、某青い看板の店も、悪くはない。ただ、それは「コーヒー」ではない。

そういう人間だった。


二 地底から来たもの

地底人が初めて地上に現れたのは、その年の九月だった。

最初は小さなニュースだった。

「東京・新宿で地面が割れ、謎の生命体が出現」

トモアキはニュースを流し見しながら、コーヒーを飲んでいた。

翌日、謎の生命体は「地底人」であることが判明した。身長は人間とほぼ同じ。肌は青白く、目が大きく、光を嫌う。言語は持っているが人間とは異なる。

そして、彼らには一つの共通点があった。

コーヒーを、主食としていた。

地底では何百万年もの時をかけて、コーヒーの成分を分解・吸収できる消化器官が発達していたらしい。地底のコーヒー豆の地層が尽きたため、地上に出てきたのだという。

地底人はコーヒーを求めて、世界中のコーヒー農園に押し寄せた。

人類とコーヒーの、大戦争が始まった。


三 争奪戦

国連緊急会議が開かれた。

世界のコーヒー生産量は年間約一千万トン。しかし地底人の人口は推定五億人で、一人あたりの消費量は人間の百倍に相当するという。単純計算で、地底人が参戦した瞬間にコーヒーは枯渇する。

スターバックスの株価が翌日に七十パーセント暴落した。

ブルーボトルコーヒーが全店舗を一時閉鎖した。

コンビニのコーヒーコーナーに、行列ができた。

人々は我先にと豆を買い占めた。コーヒー豆の価格は一週間で十倍になった。

トモアキは備蓄していた豆が三キロあることを確認し、ひとまず安堵した。

しかし安堵は長くは続かなかった。

三キロでは、三ヶ月しかもたない。

トモアキは決意した。

産地に行くしかない。


四 アマゾンへ

トモアキが向かったのは、ブラジルのアマゾン奥地だった。

世界最大のコーヒー生産国であるブラジルに、地底人の主力部隊が集結しているという情報があった。そこで人類側の「コーヒー防衛隊」が結成され、有志を募っているという。

トモアキは会社に一ヶ月の休暇を申請した。

理由欄に「コーヒー大戦争参加のため」と書いた。

上司は三秒沈黙した後、「わかった」と言った。


サンパウロから国内線でベレンへ。そこから小型プロペラ機に乗り換え、さらに船で川を遡ること三日。トモアキはアマゾン奥地のコーヒー農園にたどり着いた。

そこには、すでに百人ほどの人間がいた。

日本人、ブラジル人、エチオピア人、コロンビア人、インドネシア人。国籍はバラバラだったが、全員に共通点があった。

コーヒーに、命をかけていた。

防衛隊のリーダーは、カルロスというブラジル人の農園主だった。六十代、がっしりした体格、日焼けした顔に深い皺。コーヒーベルトの農家に生まれ、四十年間コーヒーを作り続けてきた男だった。

「よく来た」とカルロスはポルトガル語で言い、隣の通訳が日本語にした。「ここは私の農園だ。この木々は、私の父が植えた。そして今、地底人に奪われようとしている」

トモアキはコーヒーの木を見た。

緑の葉の間に、赤い実がなっていた。

コーヒーチェリーだ。

あの赤い実の中に、二粒の種がある。それが豆になる。

トモアキはこれまで何千杯もコーヒーを飲んできたが、実がなっている木を見たのは初めてだった。


五 農園の話

戦闘の準備をしながら、カルロスはトモアキに農園の話をした。

「コーヒーの木は、植えてから実をつけるまで三年かかる」

「三年……」

「木の寿命は二十年から三十年。つまり私の父は、自分が飲むためではなく、私が飲むために木を植えた」

トモアキは黙って聞いた。

「コーヒーチェリーの収穫は、今でも手摘みが基本だ。機械で収穫すると未熟な実も混じる。うちの農園では、完熟した赤い実だけを一粒ずつ手で選んで摘む。一人の農夫が一日に摘める量は、豆にして約二キロだ」

「二キロ……」トモアキは計算した。「一杯のドリップコーヒーに使う豆は約十五グラムだから……」

「一人の農夫が一日かけて摘む量で、百三十杯分ほどになる」

百三十杯。

トモアキは毎朝一杯飲む。一年で三百六十五杯。三人の農夫が一日かけて摘んだ実が、自分の一年分になる。

「摘んだ後も工程がある」とカルロスは続けた。「精製、乾燥、脱穀、選別。うちはナチュラル精製だから、実ごと天日で乾燥させる。二週間から四週間、毎日かき混ぜながら乾かす」

「毎日」

「雨が降れば屋根に入れる。晴れれば外に出す。その繰り返しだ。精製の出来が、コーヒーの味の七割を決める。だから目を離せない」

カルロスは農園を見渡した。

「私の家族は、代々この仕事をしてきた。私の祖父も、父も、私も。そして息子も、いつかここを継ぐだろう」

トモアキは赤いコーヒーチェリーを一粒、カルロスに断ってから手に取った。

つるりとした、重い実だった。

この実の中に、二粒の豆がある。

豆は船で日本に渡り、焙煎され、袋に詰められ、スーパーの棚に並ぶ。そしてトモアキが買って、グラインダーで挽いて、毎朝五秒間嗅いで、飲む。

「ありがとうございます」

トモアキは思わず、実に向かって言った。

カルロスが笑った。


六 大戦争

地底人の部隊が農園に現れたのは、その夜だった。

暗闇の中、土が盛り上がり、地底人たちが次々と地上に出てきた。数は三百ほど。青白い肌が月光に浮かんでいた。

防衛隊は農園の周囲に陣を張った。

しかし戦争は、トモアキが想像していたものとは違った。

地底人たちは武器を持っていなかった。

彼らは農園に向かって走り、コーヒーチェリーを手で摘み始めた。食べるためではなく——どうやら、地底に持ち帰るために、集めているようだった。

「待て!」とカルロスが叫んだ。通訳が地底人の言語に変換して叫んだ。

地底人たちが止まった。

リーダーらしき地底人が前に出た。

カルロスと、地底人のリーダーは、通訳を挟んで向き合った。

長い沈黙の後、通訳がカルロスに告げた。

「彼らは言っています。『地底のコーヒー豆の地層が尽きた。私たちはコーヒーなしでは生きられない。ここのコーヒーを分けてほしい』と」

カルロスは腕を組んだ。

「全部持っていくつもりか」

「……いいえ。必要な分だけ。でも、必要な分が、多い」

カルロスはしばらく黙っていた。

それから、こう言った。

「木を、植えるか」


地底人のリーダーは、きょとんとした顔をした。

カルロスは続けた。

「コーヒーの木の植え方を教える。あなたたちの地底でも、育てられるかもしれない。光が届かないなら、人工の光でもいい。試したことはないが、やってみる価値はある」

「でも……三年かかる」

「そうだ」とカルロスは言った。「だから今日から始めるしかない」


七 地底農園計画

その夜から、奇妙な協力関係が始まった。

人間と地底人が、コーヒーの木を植えた。

地底人は土を掘るのが得意だった。穴を掘る速さは人間の十倍以上だった。

人間は植え方と育て方を教えた。

カルロスは一本一本、丁寧に説明した。

「種をこの深さに植える。水は毎日だが、やりすぎてはいけない。日陰を好む木だから、大きな木の下に植えるといい」

地底人たちは真剣に聞いた。

メモを取っている地底人もいた。

トモアキはその光景を見ながら、何かがほぐれていく感覚を覚えた。

コーヒーを守るために来た。

でも今は、コーヒーを一緒に育てている。


三日間、人間と地底人は共に働いた。

地底用に改良した苗木を、地底人たちは大切そうに抱えて、地面の穴に入っていった。

最後に、地底人のリーダーがカルロスに頭を下げた。

通訳がそれを言葉にした。

「三年後、この木が実をつけたとき、地上の皆さんをご招待したい、と言っています」

カルロスは笑った。

「行くよ」と言った。


八 帰り道の喫茶店

トモアキが日本に帰ってきたのは、出発から一ヶ月後だった。

成田空港に降り立ち、電車に乗って都内に戻る。

車内はいつも通りだった。スマホを見ている人、眠っている人、イヤホンをしている人。コーヒー大戦争は終結宣言が出ていたが、日常はもう戻っていた。

駅を出て、トモアキは歩いた。

気がつくと、古い喫茶店の前に立っていた。

昭和の雰囲気が漂う、小さな店だ。手書きのメニューがガラスに貼ってある。「ブレンドコーヒー 五百円」「モーニングセット 七百円」。

入ったことはなかった。通るたびに「古いな」と思っていただけの店だ。

なぜか、足が止まった。

トモアキは引き戸を開けた。


店内は狭かった。

カウンターに五席、テーブルが三つ。壁に古いジャズのポスター。コーヒーミルが飾られていた。

「いらっしゃい」

カウンターの中から、老いたマスターが顔を上げた。七十代だろうか。白髪で、エプロン姿で、目が穏やかだった。

トモアキはカウンターに座った。

「ブレンドを」

「はい」

マスターは動き始めた。

豆をグラインダーで挽いた。古い電動グラインダーだったが、音はしっかりしていた。

お湯を沸かし、ネルドリップのフィルターにゆっくり注いだ。

ネルドリップは、布製のフィルターで淹れる方法だ。ペーパーよりもコクが出る。管理が難しく、使い終わったら洗って水に浸けて保存する。手間がかかるから、今では使う店が少ない。

マスターは丁寧に、三回に分けてお湯を注いだ。

香りが広がった。


コーヒーがカップに注がれて、目の前に置かれた。

トモアキは両手でカップを持った。

飲んだ。

「……」

うまかった。

自分で淹れるものとは、違う種類のうまさだった。

豆の品種がどうとか、精製方法がどうとか、そういう話ではない。

ただ、うまかった。

「マスター」とトモアキは言った。「何年、ここで」

「四十二年」とマスターは言った。「この場所で」

「同じ豆ですか」

「仕入れ先は変わらない。もう三十年同じ業者だ。あそこの豆が一番いい」

「どんな豆ですか」

マスターは少し考えた。

「普通のブレンドだよ。珍しいものじゃない。でも毎年、同じ畑から来る豆だ。農家のおじいさんが、もう引退するって言うたびに、もう少し続けてくれって頼んでる」

トモアキはカップを見た。

農家のおじいさんが、もう少し続けてくれ、と頼まれながら育てた豆。

三十年間、変わらない仕入れ先。

四十二年間、同じ場所で淹れ続けた一杯。

「うまいわけだ」とトモアキはつぶやいた。

マスターが少し笑った。

「コーヒーは、人が作るものだからね」


トモアキはカップを飲み干した。

五百円を置いて、立ち上がった。

「また来ます」

「どうぞ」とマスターは言った。

引き戸を開けると、秋の夕暮れの空気が入ってきた。

街はいつも通りだった。

コーヒーチェーンの看板が見えた。

コンビニのコーヒーコーナーに人が並んでいた。

トモアキはそれを見て、思った。

悪くない、か。

巷で流行っているコーヒーチェーンは、トモアキにとって「コーヒーを模した何か」だと思っていた。

でも今は、少し違う気がした。

どんなコーヒーにも、誰かがいる。

豆を植えた人がいる。三年待った人がいる。毎日天日に干した人がいる。船に乗せた人がいる。焙煎した人がいる。淹れた人がいる。

コーヒーチェーンにも、その向こうに、誰かがいる。

「コーヒーは、人が作るものだからね」

マスターの声が、頭の中で繰り返した。

トモアキは歩き出した。

明日の朝、またコーヒーを飲もう、と思いながら。

そして今度は、この喫茶店にも、また来よう、と思いながら。



作者メモ コーヒーの木は、植えてから実をつけるまで三年かかる。収穫は今でも多くの農園で手摘みだ。一人の農夫が一日に摘める豆は、約二キロ——百三十杯分ほどになる。ネルドリップは使い終わったら洗って水に浸けて保管する。四十二年間、毎日続けてきた人がいる。一杯のコーヒーの向こうに、そういう人たちがいる。

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