Story9. 老人試験

読了目安:15〜20分


一 定年の朝

六十五歳の誕生日の朝、トモアキはいつも通り六時に目が覚めた。

天井を見た。

今日で定年か。

感慨があるかと思っていたが、特になかった。

ただ、腰が少し痛かった。

妻のルイが「おめでとう」と言って、ケーキを出してきた。朝からケーキだった。

「誕生日と定年、両方お祝いね」

「ありがとう」

娘のカエデが二階から降りてきて、眠そうな目で「おめでとう、お父さん」と言った。

「ありがとう」

それだけだった。

トモアキは四十年勤めた会社に最後の出社をして、夕方には帰ってきた。

花束をもらった。胴上げをされた。部長に「長い間お疲れ様でした」と言われた。

「お疲れ様でした」とトモアキも言った。

帰りの電車の中で、トモアキは思った。

これからどうしようか。

特に答えは出なかった。


二 書面

帰宅すると、郵便受けに封筒が入っていた。

差出人:内閣総理大臣

「……なんだ」

トモアキは首をかしげながら封筒を開けた。

中には便箋が三枚入っていた。

縦書き、毛筆体のフォント、格調ある紙。

読み始めた。

拝啓 時下ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。

さて、田中智昭様におかれましては、本日めでたく六十五歳の誕生日を迎えられましたこと、誠におめでとうございます。

つきましては、本書面の受領をもって、「老人認定試験」受験資格が発生したことをお知らせいたします。

「老人認定試験」

トモアキは読み返した。

同じ文字が書いてあった。

読み続けた。

老人認定試験とは、日本国において「老人」として正式に認定されるための国家試験であります。本試験は六十五歳以上の方のみを対象とし、その存在は六十五歳未満の方には非公開とされております。

世間一般で「老人」と認識されている方々は、全員本試験に合格した認定老人であります。

合格されない場合、老人としての各種社会的扱いを受ける権利が発生いたしません。

試験日程:受領から三十日以内に受験のこと。

試験会場:最寄りの「老人認定試験センター」(非公開施設)

「……なんだこれ」

トモアキはもう一度最初から読んだ。

書いてあることは変わらなかった。


三 家族への相談

「ねえ、これ見て」

トモアキはルイに書面を渡した。

ルイは読んだ。

「……老人認定試験?」

「そう書いてある」

「何これ、詐欺じゃないの」

「総理大臣名義だぞ」

「だから詐欺でしょ」

カエデが覗き込んだ。

「え、なにこれ。『老人として正式に認定されるための国家試験』? そんなのあるわけないじゃん」

「でも書いてある」

「お父さん、引っかかってるよ。絶対詐欺」

トモアキはもう一度書面を読んだ。

封筒の消印を見た。

確かに「内閣府」の印刷があった。

「……受けてみようと思う」

「やめてよ」とルイが言った。

「一応調べてみる」とトモアキは言った。


翌日、トモアキは書面に書かれた電話番号に電話した。

三回コールして、繋がった。

「老人認定試験センターです」

「あの……試験のことで電話したんですが」

「田中智昭様でしょうか」

「そうですが……なぜわかるんですか」

「書面の受領確認が取れております。試験の詳細をご案内いたします」

電話口の声は落ち着いていた。

担当者は試験の概要を説明した。

試験は二部構成。第一部は筆記試験——老人としての知識、品格、社会的役割に関する問題。第二部は実技試験——老人としての「立ち振る舞い」の審査。

「立ち振る舞いとは」

「言葉遣い、所作、後輩への接し方などを総合的に審査いたします。詳しくは試験当日に」

「わかりました」

電話を切った。

「詐欺じゃなかった」とトモアキは家族に言った。

「どうせ電話も詐欺よ」とルイは言った。


四 老人の勉強

試験まで三十日。

トモアキは勉強を始めた。

書面には「試験対策テキスト」の案内もあった。非公開の専用サイトからダウンロードできる仕組みで、パスワードは書面に記載されていた。

テキストは三百ページあった。

目次を見た。

第一章 老人の定義と社会的役割 第二章 老人の品格について 第三章 老人語の基礎と応用 第四章 後輩・若者との関わり方 第五章 老人として守るべき十箇条

「老人語の基礎と応用……」

トモアキは第三章を開いた。

老人語とは、認定老人が日常的に使用することが求められる言語様式である。代表的なものを以下に列挙する。

・一人称は「ワシ」を基本とする(「わたし」「おれ」等は不可) ・語尾に「〜じゃ」「〜のう」「〜じゃろう」を積極的に使用する ・感嘆詞として「ほっほっほ」を使用することが望ましい ・若者を呼ぶときは「若いの」と呼ぶことができる

「……ほっほっほ?」

トモアキは画面を見つめた。

なお老人語の習得は任意ではなく、実技試験の評価項目に含まれる。老人語を自然に使いこなすことが合格の鍵となる。

トモアキはため息をついた。

そして、練習を始めた。


五 家族の困惑

翌朝、食卓でトモアキが言った。

「ルイよ、今日の朝食は何じゃ」

ルイが振り返った。

「……何?」

「今日の朝食は、何じゃと聞いておる」

「……トースト」

「そうか。ありがたいのう」

ルイはしばらくトモアキを見た。

「……何かあったの?」

「ワシは試験の練習をしておるのじゃ」

「お父さん、大丈夫?」とカエデが言った。

「大丈夫じゃ。ほっほっほ」

カエデとルイは顔を見合わせた。

その日の夜、ルイはカエデに小声で言った。

「お父さん、定年でちょっとおかしくなっちゃったのかな」

「詐欺に引っかかってると思う」とカエデは言った。


一週間後、トモアキの老人語はかなり板についてきた。

「カエデよ、今日は何時に帰るのじゃ」

「……六時」

「そうか。気をつけて行くのじゃぞ、若いの」

「……お父さん、私に『若いの』って言うのやめてくれる? なんか腹立つんだけど」

「ほっほっほ、これが老人の言葉遣いというものじゃ」

「だから腹立つって言ってるの」

トモアキは少し考えた。

テキストの「第四章 後輩・若者との関わり方」に、こうあった。

老人語は相手を包み込む温かさをもって使用すること。言葉の形式よりも、相手への敬意と配慮が根本にあることを忘れてはならない。

「……そうか。少し考えてみるのじゃ」

カエデは「もう」と言って出かけた。


六 筆記試験

試験当日。

試験会場は、都内のとある区役所の地下にあった。

受付で名前を告げると、地下に案内された。

広い会場に、五十人ほどの同年代の男女が座っていた。みんな、トモアキと同じく今年六十五歳になった人たちだろう。

緊張した顔の人、余裕そうな顔の人、落ち着かなそうにキョロキョロしている人。

トモアキは席に着いた。

筆記試験が始まった。

問題用紙を開いた。

問一 老人の社会的役割について、あなたの考えを三百字以内で述べなさい。

問二 以下の状況において、老人としてふさわしい言動を選びなさい。 (若い店員がおつりを間違えた場面) (A)大きな声で叱責する (B)黙って立ち去る (C)穏やかに指摘し、相手が訂正しやすい環境を作る (D)SNSに書き込む

「(C)じゃな」

トモアキは迷わず選んだ。

問題を読み進めた。

問三 老人として「してはならないこと」を三つ挙げなさい。

トモアキは少し考えて、書いた。

一、自分の経験だけを絶対視し、若い人の意見を聞かないこと。 二、老人であることを盾に、無礼な言動を許容されようとすること。 三、品格のない言葉で、後輩や若者を傷つけること。

書きながら、思った。

これは、老人だけの話ではないのかもしれない。


七 実技試験

筆記の後、実技試験が始まった。

一人ずつ別室に呼ばれた。

部屋には審査員が三人いた。六十代から七十代に見える、品のある男女だ。

「では始めます」と審査員の一人が言った。「まず、自己紹介をしてください。老人語で」

トモアキは咳払いをした。

「ワシは田中智昭と申す。本日、六十五歳を迎えたところじゃ。四十年間、会社勤めをしておったが、本日をもって定年退職した。これからは妻とともに、穏やかな日々を送りたいと思っておる。どうぞよろしくお願いするのじゃ。ほっほっほ」

審査員たちが何かをメモした。

次の課題が始まった。

「では次に、若い後輩がミスをした場面を想定してロールプレイをします」

審査員の一人が若い後輩役になった。

「先輩、すみません、資料を間違えて全部シュレッダーにかけてしまいました」

トモアキは少し間を置いた。

「……そうか。それは困ったのう」

「本当に申し訳ありません」

「バックアップはあるか?」

「……あります」

「では、次からはバックアップを先に確認してから作業するとよい。ミスは誰でもする。大事なのは、次にどうするかじゃ。ほっほっほ」

審査員がまたメモした。

次の課題。

「では最後に、一つ質問です」と審査員が言った。「老人として、若い人に伝えたいことは何ですか」

トモアキは考えた。

しばらく考えた。

「……ワシは四十年間、仕事をしてきた。いろんな失敗をして、いろんな人に助けてもらった。たくさんのことを学んだつもりじゃ」

「はい」

「でも、ワシが学んだことは、ワシが生きた時代のことじゃ。若い人たちが生きている時代とは、違う」

審査員が少し身を乗り出した。

「だからワシは、若い人に何かを教えようとするよりも、若い人の話を聞きたいと思っておる。ワシが知らないことを、きっと若い人たちは知っておる。お互いに話して、お互いから学ぶのが、ワシのやりたいことじゃ」

「……なるほど」

「それから」とトモアキは続けた。「老人だからといって、何を言っても許されると思うのは間違いじゃと思う。ワシも含めて、老人であっても、人と話すときは礼儀と敬意が必要じゃ。年を取れば品格が自然につくわけではない。意識して、磨いていかなければならないものじゃと思う」

部屋が静かになった。

審査員の一人が、ゆっくりうなずいた。


八 合格

二週間後、結果が届いた。

封筒を開けた。

合格

の二文字があった。

「合格した」とトモアキはルイに言った。

「何に?」

「老人試験」

「……本当にあったの、そんな試験」

「あったのじゃ」

「またその喋り方……」

「これはワシの言葉じゃ」

ルイはため息をついた。でも少し笑った。

カエデが帰ってきた。

「お父さん、試験受かったって本当?」

「そうじゃ」

「……どんな試験だったの」

トモアキは少し考えた。

「老人になるための試験じゃ」

「どんな問題が出たの」

「いろいろあったが……一番大事なのは、こういうことじゃった」

トモアキはカエデを見た。

「年を取っても、人の話をちゃんと聞くこと。自分が正しいと思い込まないこと。そして、いつでも礼儀を忘れないこと」

カエデはしばらくトモアキを見ていた。

「……それ、老人だけの話じゃなくない?」

「そうじゃな」とトモアキは言った。「そういうことじゃ」

ルイが「ご飯できたよ」と呼んだ。

三人で食卓についた。

「ワシはご飯が楽しみじゃ、ほっほっほ」とトモアキが言った。

「それはいらない」とカエデが言った。

「ほっほっほは試験に必要だったんじゃ」

「もう合格したでしょ」

「……そうじゃな」

トモアキは笑った。

普通に、笑った。


九 老人として

それから、トモアキの生活は少しずつ変わっていった。

老人語は、家族にうるさく言われたので、外出先だけで使うことにした。

公園で出会った見知らぬ老人と話すときは、老人語を使った。

「今日はよい天気じゃのう」

「ほんにそうじゃ」

老人同士の会話は、思ったよりはずんだ。

近所のスーパーで、若い店員が商品の場所を教えてくれるとき、トモアキは丁寧にお礼を言うようにした。

「ありがとうのう。助かったわい」

店員が少し嬉しそうな顔をするのが、わかった。

カエデが仕事の悩みを話してくれるとき、トモアキはアドバイスをしないようにした。

ただ聞いた。

「そうか、大変じゃったのう」

「うん」

「よく頑張ったのう」

「……ありがと、お父さん」

アドバイスをしないほうが、カエデはよく話してくれた。

ルイに「最近なんか変わったね」と言われた。

「試験の成果じゃ」とトモアキは言った。

「ほっほっほ、はもういいけど」とルイは言った。

「ほっほっほ」

「だからそれはいい」



作者メモ 老人だから尊敬されるのではなく、尊敬される老人になる努力をするのだと思う。それは若い人も同じかもしれない。年齢に関係なく、人は人と話すとき、礼儀と敬意を持つことができる——そして、それは意識しなければ、自然にはなかなか身につかないものだ。

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